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訃報 小林陽太郎氏(富士ゼロックス元会長)

s小林元会長写真 小林陽太郎氏(富士ゼロックス㈱元会長)は9月5日、死去した。享年82歳。
 葬儀ミサ・告別式は近親者のみで執り行われ、後日「お別れの会」を予定している。
同氏は1933年4月25日ロンドン生まれ。1956年慶應義塾大学経済学部を卒業、1958年ペンシルベニア大学ウォートンスクール修了後富士写真フイルム(現富士フイルム)に入社、1963年富士ゼロックスに転じ、企画部長、取締役販売本部長などを経て1978年に代表取締役社長に就任(44歳)、1992年代表取締役会長に就任、2004年に取締役会長となり2006年から相談役最高顧問、2009年3月31日付で退任。

 1970年、販売本部長としてビューティフル・キャンペーン─モーレツからビューティフルへ─を展開、企業と社会のより良い関係を訴え、そのメッセージは高度経済成長下の「モーレツ」社会へのアンチテーゼとして注目を浴びた。
その後競合企業の参入、石油危機などにより経営環境が厳しさを増し、全社にわたる本格的な体質強化が急務となり、1976年に副社長になるとNX(ニューゼロックス)運動と呼ぶ全社的品質管理・TQC活動を推進し、1978年1月、社長に就任。翌年には、TQC活動の起点となる自社の存在目的を明らかにするため、最初の企業理念を制定。1980年にTQC活動の成果として「デミング賞実施賞」を受賞。
 1982年に総合研究所を設立し、米国ゼロックス製複写機の販売からスタートした富士ゼロックスを、研究―開発―生産―販売という一貫した企業体とする。
1987年には米国ゼロックス・コーポレーション取締役にも就任、富士ゼロックスのグローバルなゼロックス・グループ内での地位を格段に向上する役割を果たした。
 1988年、TQC活動による均一化を打破するため社員の声を吸い上げ「ニューワークウエイ」─個の発想を重視した新しい働き方─を提唱し、1990年に国内で初めてボランティア休職制度を導入した。また、介護・育児休職制度や旧姓使用、ベンチャービジネスプログラム、サテライトオフィスなどを相次いで導入するなど、企業、社会、社員(個人)のバランスが取れた経営を目指した。
 90年代に入ると、複合機のデジタル化、カラー化を加速させる一方、ランク・ゼロックス社よりアジア・パシフィック地域4カ国の事業権を取得、95年には当時、米国ゼロックス社の事業テリトリーであった中国に工場を設立するなど、海外事業を拡大した。
 1992年に代表取締役会長となり、今後の企業のあり方として「よい会社」構想をまとめた。「よい会社」とは、売上・利益など経済的に「強い」だけでなく、地域社会や環境に対して「やさしい」会社であり、また、働く人たちがそこで働くことが「おもしろい」と思えるバランスのとれた会社であり、ニューワークウエイで提唱した企業観に基づく構想である。
 1999年には、取締役会を改革し取締役会の下に財務委員会と役員指名・報酬委員会を創設し、執行役員制度を導入。
2000年には、米国ゼロックス社から中国における事業権を獲得。2004年3月期決算において1兆円企業とした。

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